監獄の島から癒しの島へ——台湾の離島・緑島が歩んだ軌跡

政治・社会・軍事

台湾には台湾本島を含め、86もの島々があります。今回ご紹介するのは、その中でも7番目に大きい火山島「緑島(中国語では「綠島」)」です。

台湾本島の東南方に位置し、満潮時約15㎢、干潮時約17㎢と、新宿区と同じくらいの大きさの緑島は、スキューバダイビングや温泉を楽しめる観光地として台湾内外から人気のリゾート地です。

しかし、そんな緑島はかつて「監獄の島」と呼ばれていた時代がありました。その名の通り、かつて政治犯たちが送られた隔離の島だったのです。この記事では、今年の1月に実際に訪問した情報をもとに、緑島の歴史と変遷、現在の観光施設、そして癒しの島へと生まれ変わっていった軌跡をたどっていきます。

1 「監獄の島」と呼ばれた時代

緑島の歴史を語るうえで、避けて通れないのがその「政治犯収容所」としての過去です。日本統治時代には「火燒島」と呼ばれ、主に社会秩序を乱すものたちの流刑地として使用されていた緑島。しかし、この島が「監獄の島」として本格的に利用され始めたのは、1949年、中華民国政府が中国共産党との内戦に敗れ、台湾に撤退して以降のことでした。

1950年代から1980年代にかけて、台湾は「白色テロ」と呼ばれる政治弾圧の時代を迎えます。国民党政権は、共産党支持者だけでなく、少しでも政府に批判的な知識人や学生をスパイとして逮捕、投獄しました。その際、多くの政治犯が送られたのが、緑島にあった「新生訓導処」(1951-1965)や「綠洲山荘」(1972-1987)だったのです。

特に1970年代以降、緑島は政治犯の「思想改造施設」としてその名を知られるようになります。ここでは再教育という名目のもと、思想転向を強要され、過酷な労働や監視下での生活が続きました。

2022年に岩波書店から刊行された『台湾の少年2 収容所場の十年』では、「スパイ事件」の罪に問われて懲役10年を言い渡された政治犯の一期生・焜霖(こんりん)の収容生活を通して、白色テロ時代における緑島の様子を知ることができます。

 

『台湾の少年2 収容所場の十年』の表紙

役場に勤めていた焜霖は、高校2年の時に参加していた読書会が非合法組織とされ、無罪の罪で逮捕されます。当時の台湾は、蒋介石率いる国民党により戒厳令下に敷かれ、台湾社会へのコントロールを強化するために異文化を粛清していました。その方針は「100人を誤殺しても1人の犯人を逃すな」というもの。いくつかの収容所をたらい回しにされ、緑島に送られた焜霖は、第一大隊の第三中隊に属し、力仕事から飯炊き、養豚場での仕事を経験しながら故郷への思いを馳せる日々を送ります。

印象的なのが、「ガリガリ」と同胞たちから呼ばれていた焜霖が、100人以上の飯炊きをする力仕事に立候補するシーン。直前に親友の死を知らされ、絶望の淵に立っていた焜霖が、難しい仕事をこなし、休む暇もないほど働くことで、親友を失った悲しみを心に押さえつけようとする様子には胸が締め付けられます。

現在、当時の施設跡は「白色恐怖緑島紀念園区」として保存されており、台湾の白色テロ時代を伝える貴重な証言の場となっています。

 

2 緑島・国家人権博物館へのアクセス

台湾本島からのアクセスには飛行機またはフェリーの2通りがあります。

①飛行機:台東空港から緑島空港までは約15分のフライト。天候により欠航もありますが、最も早く到着できます。時期によっては予約が取りにくいため、注意が必要です。

 

緑島の空港、滑走路の様子

②フェリー:台東市の富岡漁港からフェリーで約50分。波が荒いと揺れが非常に激しいので注意が必要です。飛行機よりもリーズナブルで、本数も多く利用しやすいのが特徴です。

富岡漁港の様子
船の様子。日本製の船が使われています
レトロな船内

どちらの交通手段を利用するにしても、時間と体力を要します。私が今年1月に訪れた際は、往復ともにフェリーを利用しましたが、天候が悪く、これまでに経験したことのないほどの船酔いに見舞われました。島に到着してから1時間ほどは、ぐったりとして何も手につかないほどでした。

辿り着くまでに一苦労を要するその様子は、まさに「監獄の島」という呼び名を思わせるものでした。

島内の移動手段としては、原付バイクや電動スクーターのレンタルが主流です。島を一周する道路は約20kmと短く、1日あればゆったりと観光できます。

 

レンタルショップの前には大量のスクーターが並びます。

3 白色恐怖紀念園区と記憶を継ぐ施設

緑島に行く機会があればぜひ訪れてほしいのが、政治犯たちの足跡を辿ることができる「国家人権博物館」。実際に訪問した際の写真を含めてたっぷりとご紹介します。

園内地図を持ってまわりました

■ 監獄「綠洲山荘」

外観の様子

1972年に完成した政治犯収容施設。山間に立地し、コンクリートの塀に囲まれた無機質な建物群が並んでいます。内部には居住区、教化室、作業場などが再現されており、一番多い時で500人が収容されていました。当時の収容生活をリアルに感じることができます。

中に入ると監視の場所が現れます
特徴的な形式をしています

獄舎は放射状に分かれており、これは19世紀に世界各国で建てられた監獄の代表的な形式の一つです。

面会室の様子。電話を通じて会話が行われ、監督者に何か不都合なことがあれば会話途中に切られ、コミュニケーションが取れなくなる仕組み
獄舎の様子。雨漏りや虫、室温など様々な問題が尽きませんでした
部屋の様子。この一室に8-12人が押し込められていたようです

展示パネルでは、収容者の証言、投獄の経緯、思想教育の実態、労働の様子が詳しく紹介されています。

各部屋の展示の説明
囚人一人一人にフォーカスを当てた説明も

■ 新生訓導処跡

全貌の復元模型の展示

1951年から設置され、政治犯の隔離・管理を目的として運営され、「新生(新しく生まれ変わる)」するための思想改造教育が行われました。『台湾の少年2 収容所場の十年』では、焜霖が孫文や蒋介石の言行録、ソ連による中国侵略史、毛沢東批判などを学んだことが記されています。

 

「教化(思想改造)」の様子

現在はその跡地が保存され、見学可能です。炊事場や医務室の復元もあり、冷たい海風が吹き抜ける中でかつての緊張感が蘇ります。

 

炊事場の様子
医務室の復元。島には軍医がいたものの、頼りなかったため医学専攻の受刑者が島民のお産を手伝ったこともあるそうです
模型を用いた展示。狭さがよく伝わります
石を採掘して自分たちが脱獄できないように塀を作らされます

このような歴史的跡地は「不義遺跡(不正義遺跡)」と呼ばれ、過去の負の遺産を次世代に伝えるのに役立っています。

2018年に緑島で行われた「国家人権博物館」の除幕式典において、焜霖はその式典で、蔡英文総統を前に緑島で受けた経験について語りました。その際、総統は焜霖の言葉を受けて「移行期正義」を推し進めることを約束し、同月には行政院移行期正義促進委員会を立ち上げました。

移行期正義とは、独裁体制から民主制度へと移行する過程において、過去に行われた人権侵害を糾し、真実を明らかにすることで社会正義や国民間の和解を実現する試みを指しています。この移行期正義に基づいて、積極的に戒厳令時代に行われた人権侵害の調査やその関連施設の保存が進められているのです。

 

4 リゾート地としての再生と魅力

過去の重い歴史を背負いながらも、緑島は現在、リゾート地としての再生を果たしつつあります。

■ 自然の宝庫

緑島は火山島であり、ダイナミックな地形と美しい海が魅力。島全体が緑島火山島地質公園に指定されており、独特な地形や海食洞窟、潮間帯の生物観察が楽しめます。

 

夕焼けの時間帯は絶景です
まるでゴジラ岩!な風景も

■ 海中観光とスキューバダイビング

緑島の海は透明度が高く、サンゴ礁や熱帯魚の楽園でもある。初心者向けの体験ダイビングから、上級者向けのボートダイブまで、幅広く楽しめる。夜になると、満天の星と海の音だけが響き、都市の喧騒を忘れさせてくれます。

今回私は冬の時期に行ったのですが、ぜひ夏の緑島にも訪れたいと思っています!

■ 温泉と宿泊施設

緑島には、世界でも数少ない海水温泉「朝日温泉」があります。海岸線に位置し、露天風呂から太平洋を眺めながら浸かれる貴重なスポット。夜には星空、朝には朝日を眺めながらの入浴は、旅の疲れを癒してくれるはず。(要水着)

近年では、民宿やゲストハウスが整備され、旅行者を温かく迎えてくれる。地元の家庭料理を味わえる食堂も点在しており、島の暮らしに近い旅ができるのも魅力の一つです。

 

 

温泉に使った後に、近くのレストラン「小島太太」で食べた、緑島のイカを使った春雨スープ。優しいスープで絶品でした!

「観光」の向こうにある物語

緑島は、単なるリゾート地ではなく、その美しさの裏には、かつての痛みが刻まれています。

台湾では、過去の政治的抑圧を記憶として保存し、若い世代に伝える動きが各地で広がっています。緑島もまた、記憶の継承と観光振興を両立させる希少なフィールドです。

ぜひ、次に台湾を訪れる際は、緑島まで足を延ばしてみてはいかがでしょうか?ただ海の美しさを楽しむのではなく、その土地が歩んだ歴史とともに旅をすることで、風景の見え方はきっと変わるはずです。

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