台北から飛行機で約1時間。台湾海峡の真ん中に澎湖諸島という離島がある。
筆者はその澎湖諸島に兵役時の同期と観光に行く機会があった。玄武岩や美しい海で有名な観光地でもあると同時に、そこは中国と台湾本島の間に位置する”前線の島”の一つであり、古くから軍事要塞が建設された島でもある。
兵役の訓練を終えたばかりということもあり、私と同期は砲兵陣地などの軍事遺構を観ながら「ああ軍事訓練を受けた場所もこんな感じのぶっきらぼうなコンクリートだったな」とか思い出しながら観光をしていた。
澎湖諸島に篤行十村眷村文化園区という場所がある。かつて軍人とその家族のために作られた「眷村(けんそん)」と呼ばれる住宅地をリノベーションした観光地である。風の影響を避けるように地面を掘って建てられた家々は、同時に砲兵陣地と同じぶっきらぼうなコンクリート造で、住居ではありながら、それが”軍事関連施設”であることは一目瞭然だった。
「ねね!あそこでも写真を撮ろうよ!」
村を出た時、不意に日本語が聞こえた。日本人カップルの観光客だった。
学生だろうか。へそ出しの服に高いブーツの装いの女性が、村の前にある大きな石の前に立って、腕をめいっぱい広げて、写真を撮った。なるほど台湾旅行の楽しさが伝わる写真になりそうだ。台湾を満喫してもらうことは筆者として何にも代え難い喜びがあるものだ。
が、その写真に映る石には赤地に白文字でこう書かれている。
ーー【勿忘在莒】=莒(苦境の中でも失地回復を誓った地)に在ることを忘れるな
皮肉なものだと思った。
今や失地回復の誓いは忘れられ、”インスタ映えスポット”の観光地としてセカンドライフを送っている。
眷村の観光地化は全台湾的な現象だった。澎湖諸島の篤行十村眷村文化園区に限らず、台湾本島でもカラフルなペイントで埋め尽くされた「彩虹眷村」、古民家カフェが立ち並ぶ「四四南村」などが、台湾でも屈指の人気を誇る”インスタ映えスポット”として知られている。これらの観光地に共通するのは、かつて軍人とその家族のために作られた住宅地、眷村だったという歴史である。

篤行十村眷村文化園区前の石
住宅地だったということはそこで生活していた人がいたはずである。
しかし、日本の観光客のみならず、台湾人の中でも、眷村で育った人は少数であり、そこの暮らしぶりを知る人は存外多くない。
偶然にも筆者の母方は、眷村で生まれ育った数少ない台湾人の一人である。
観光地となった眷村とはどんな暮らしだったのか。
今回は母と二人の兄弟(筆者にとっては叔父)を訪ね、かつての暮らしぶりを取材することにした。
その中で見えてきたのは、台湾の戦後史に泡沫のように現れそして消えた、眷村の暮らしぶりと、よそ者を受け入れ、”台湾化”させていった台湾のスピリットだった。

筆者の母(左)と叔父(長男、右)
外省人と本省人 〜戦後台湾の新たなる特権階級〜
眷村の歴史を見る前に、まずは戦後台湾史における外省人と本省人について触れておく必要がある。

外省人と本省人(AI生成)
1945年、台湾は50年に及ぶ日本の植民地支配を終え、中国に返還されることとなった。
直後、中国では中国国民党(以下国民党)と中国共産党による第二次国共内戦が勃発した。この内戦で国民党は敗れ、政府機能が丸ごと台湾に流れ落ちてきた。その中で、中国大陸の各地から国民党に付き従ってきた軍人をはじめ警察など公務員とその家族を大挙して台湾に連れてきていた。数にしてのべ200万人にも及んだという。

台湾に進駐した中国国民党軍(1945年10月)/出典:Wikipedia
この国民党に従ってついてきた人たちを外省人、またそれと区別するため1945年より以前に台湾に住んでいた人たちを本省人と呼ぶ。
国民党の台湾移転後、軍や警察、教師や公務員といった中央組織は外省人が独占し、大日本帝国同様、もしくはそれ以上に苛烈な権威主義の支配を敷くことになる。
眷村のなりたち 〜”80年の仮ぐらし”〜
今日インスタ映えスポットとして有名な「彩虹眷村」や「四四南村」などの眷村はこういった、中国大陸で家を失った外省人とその家族向けに作られた集合住宅地である。
1945年〜1950年代初頭:眷村の誕生
台湾に来たばかりの頃、蒋介石は中国大陸への反攻を現実に想定していた。眷村は「反攻までの借りぐらし」場所として、日本人の宿舎を転用したり、仮設の住宅地を新設したりして形成されていく。
当初の楽観的な見通し
実際、眷村でよく見られるスローガンには、当時の楽観的な見通しが表れている
——————
一年準備(一年で準備し)
二年反攻(二年で反攻)
三年掃蕩(三年で掃蕩し)
五年成功(五年で成功しよう)
——————

一年準備 二年反攻 三年掃蕩 五年成功(AI生成)
80年間の「仮ぐらし」
しかし、実際には五年どころか80年すぎても大陸に戻れる日は来なかった。その間に国民党軍人たちは家族ができ、子どもが生まれ、成人し、孫が生まれ、そして多くが生涯を終えた。眷村もまた、それに伴うように増築され、賑わい、衰退して解体され、そして一部が”映えスポット”に転生した。
眷村の生活
眷村の「住」
眷村に住んでいた外省人は、戒厳令下の台湾で公職を独占していた”特権階級”であった。しかし、眷村の暮らしぶりを聞いていくと、特権階級の集合住宅という言葉からは想像できないほど、質素で何よりも貧しかった。
手作りの家屋
家屋は住人が自分たちで手を加えながら住んでいた。主な材質は木とレンガ、それに安価なコンクリートだった。材質は決していいものではなかったようで、
「木材なんか子供達が空気銃で撃つとすぐに穴が空いたよ」と叔父は話してくれた。窓枠などにも木材が使われたが、2−3年で交換とペンキ塗りが必要だった。
「年末はペンキの塗り替えと大掃除を一家全員でやってね。それをしないと白蟻が食って、そのうちガラスが落ちてくるのよ」と母は振り返る。

筆者の母の家の入り口の前から
窓枠には緑のペンキが塗られていた。
家の外にはレンガで外壁が作られ、屋根には主に布にアスファルトを染み込ませた油毛氈という布を貼り付けることで防水効果を得ていた。欠点はアスファルトなので匂いが強いことと、すぐ劣化することだという。後半には瓦になった。
「そんな感じだから台風の時は、『3匹の子豚』の物語で藁の家に住んでいる時のようだったよ」と母は言う。

外から家を見た写真
ーー台風といえば。
母と叔父は台風の水害で家周囲が浸水し、家から出られなくなったことがあったという。
「その時、助けてくれたのが(同じ眷村に住む)近所の人でね。ドアの板材を浮かばせて助けに来てくれたんだよ」と母が思い出して語る。
「そうそう、当時のドアは今みたいな開閉式ではなく、板をはめ込んで閉めるものだったからそのドアを外して助けてくれたんだよ」と叔父も続けた。
外壁と防空壕と給水塔
眷村の全体の特徴として、まず村全体が外壁で囲まれていることが挙げられる。外省人が台湾に来た当初は本省人との軋轢も絶えず、そういった衝突から外省人を守る意味合いもあった。
また、村の中心には必ず防空壕が掘られ、ここが軍事関連の建物であることを示していた。
ただ、母が子供の頃になると防空壕が使われることはほとんどなくなり、暗くてジメジメしているし、危険ということであまり近付かないようにしていたようだ。防空壕の上は空き地となっていた。その空き地でよく映画が上映されたのだそうだ。
母は言う。「本省人なら布袋劇(台湾の伝統芸能である人形劇)をやるところなんだろうけど、外省人にそういった文化はなかったからね」
また井戸ではなく、大きな給水塔が設置されているのも特徴だったようだ。給水塔にはスピーカーも設置されていた。
そのため遠くから見た時に、外壁に囲まれており、防空壕と給水塔を備えている村が見えれば、「ああ、あそこに眷村があるな」とわかる、眷村のシンボルになっていたらしい。

眷村の路地
レンガの壁が並ぶのが眷村らしい景色だったようだ
眷村の「食」
眷村に住んでいたのは軍人、警察、公務員などがほとんどで、自給自足は不可能だった。そのため、長く配給制度が存在した。配給は「口」という単位に応じて行われ、成人が「大口」、子供が「中口」もしくは「小口」と分類され、その数に応じて米、塩、油と小麦粉から選んで配給を受けられた。配給は村に配給の軍用トラックが乗り付けて、配給券をもとに配給を受けるのだという。

軍人眷属配給券写真。横にスローガンが書かれている實踐國民生活須知(国民生活の規範を実践し)發揚勿忘在莒精神(『勿忘在莒』の精神を発揚せよ)
眷村の「文化」
眷村の暮らしはどんなものだったのか。結論からいうと、かなり牧歌的な村社会だった。
眷村は狭い団地でありながら人口密度が高い傾向にあり、近所同士知り合いであるどころか、夫は軍隊内で同じ部隊の所属という例も少なくない。自然と一つの共同体のような環境になっていった。また、眷村には外壁があることも述べたが、部外者が眷村に入ってくるとすぐわかる。
そのため、非常に治安がよかった。そのことを示す象徴的な事柄として、”眷村は家に鍵をかけない”ということが挙げられる。
「もちろんその時代はみんな貧しくて、泥棒とかも多くはなかったのだけど、その頃からでも学校の本省人のクラスメートは鍵を持っている子もいたよ。私たちはそれが不思議でね。なんで家に鍵なんかかけるんだと。でも大人になってから、そっちの方が一般的だということに気がついたよ」と懐かしんだのは叔父であった。
子供たちは村の中で遊ぶことが多く、男の子はめんこやおにごっこ遊びを、女の子はケンケンパなどをしていたようだ。
どのように伝わったのかは不明だが、日本の昭和とあまり変わらない遊びにおどろいた。
「晩御飯の時間になると少しずつ家に帰るんだけどね。どこかの家で滷肉飯(ルーローハン)を作っていたりすると匂いが漂ってくるから、ご飯だけ持ってまた集まったりしていたね。」
母がそう語るように、近所の子供たちを預かったり、村全体で子育てをするような空気があったのだろう。
母も叔父二人も異口同音に話すのは、「眷村ほど子育てに最適な環境はないのではないか」という言葉だった。

筆者の母(左)と叔父(次男、右)
「女性を重視する傾向にもあったよ」と叔父は話す。背景には眷村の人たちが(その当時にしては)晩婚の傾向にあったと言う。
そもそも外省人は軍人なので、ほとんどが男性で、18歳とか、もしくはもっと若い時期から軍に参加して、それから日中戦争、国共内戦とずっと戦場で生活してきた。台湾きてからもすぐ帰るからと、当初は世帯をもつことが許されていなかった。しかも当時の本省人の中では、『外省人の嫁に出すなどまかりならん』という価値観が強く、両親から勘当されることを覚悟で外省人に嫁ぐしかなかった。
実際、筆者の祖父は10代から従軍していた外省人で、祖母は本省人。これらの障壁を乗り越えて結婚したものだから、嫁いできてくれた人は本当に大事にした。
「本省人の家にいくと、一部の家庭では食事の時間を男女で分けて、女性の方が後に食事をするなんて家庭もあったけど、眷村でそんなことは絶対考えられなかった。」
続けて叔父が言う。
「眷村では、誰々と喧嘩したとか、殴った殴られたとか何にも言われなかったけど、女の子を殴ったとなれば、もう終わり。親父からゲンコツが飛んでくる。」

祖父が撮ったであろう祖母の写真。家族アルバム内には祖母単体や二人で映る写真が本当に多い。反対に祖父単独の写真は一枚もなかった
「そんな感じだから眷村は気が強い女性が育ちがちだよね」
そう話す叔父に筆者は聞いてみることにした。
「…母のような?」
「そう、私のような。」
間髪入れずに母が胸をはる。
なるほど、と思った。
眷村の特徴として勉学を重視する傾向にもあったという。背景には外省人たちに”継ぐべき家業がない”ということが挙げられる。継ぐ田畑やお店もない、外省人に多かった公務員になろうと思ったら結局、勉学に励むしかない。
実際、母は専門学校を卒業したのち、日本の中央大学に留学をしている。当時の女性としては非常に珍しかったはずだ。叔父は台湾師範大学を卒業している。そうして学問を身につけた眷村の子供たちは、アメリカや日本、カナダ、中国や香港など世界中に活躍の場を広げていく。翻って、眷村では空洞化が進んでいくことになる。
消えゆく眷村文化
眷村及び眷村文化は、母の世代になると急激に衰退していく。
その原因として叔父は以下のようなものを挙げた。
一つ目が少子化。「本省人の家庭で例えば農業とか、お店をやっている家庭にとって子供は労働力になる。12歳くらいになれば、畑やお店の手伝いもできる。そこが眷村の子供と大きく違うところで、家業を持たない外省人にとって子供は労働力にならない。結果、本省人に比べて、外省人の家庭では子供をたくさん作ろうという力が働かなかった。
二つ目が同化である。そもそも外省人に同化を拒むほどの文化の濃度がなかった。外省人の多くが10代そこそこで家もとを離れ、何十年も従軍生活をしていた。故郷の文化や習慣を十分に吸収することなく、ひたすら戦争をしてきたわけである。
加えて、眷村には中国各地から軍人がきている。ただでさえ希薄な文化の上に広大な中国の習慣がそれぞれあるものだから「これぞ眷村文化」と言えるものが形成されることはなかった。
その証拠に眷村には宗教がない。
「本省人の家に行くと必ず赤い蝋燭で照らされた廟というか神棚みたいなものがあるけど、あれは眷村では見かけない。ちょっとうやましかった」と言って叔父は寂しそうな顔をした。
また、叔父がこんなことを言っていた。「本省人と外省人が結婚した家庭を見ると、だいたい本省人の奥さんの方が強いことがわかるよ。考えてみれば奥さんには両親がいて、きょうだいも親戚もいる。けど外省人はどうだ?一人だけじゃないか」
ここで一点補足をすると、本省人の立場からしてみれば、眷村の外省人は権威主義体制の支配者でしかなかった。蒋介石率いる国民党政府は人類史上最長とも言われる戒厳令を敷き、228事件を筆頭に、民間人を大量に殺害・投獄した。それらを実施したのは紛れもなく軍人を中心とした外省人である。
台湾は、原住民文化や客家文化など他文化社会であるが、唯一眷村だけは、台湾の後ろめたい過去と密接につながっている。だからこそ眷村文化は他の文化のように守り・伝えようという力学が働きにくく、ただでさえ希薄な文化はあっという間に姿を無くしてしまった。
取材後、空軍三重一村を母と叔父は懐かしそうに散歩していた。すっかり二人だけの世界に入ってしまい、筆者のことなど忘れてしまったかのようだった。
そんな背中をみてふと、彼らこそ「最後の外省人」なのだろうと思った。

母と叔父の二人は外省人二世というべき世代だ
権威主義政権の傷痕から観光地へ
眷村の歴史はまるで移植された皮膚のようだ。
眷村は国民党政府という権威主義政権が作った人工の共同体で、明らかに人為的な理由でそこに現れた。
移植当初は炎症も壊死も起こしたはずだ。
しかし、次第に元の皮膚を同化し、気づけばどこが移植でどこが元の皮膚か見分けがつかないまでになっていった。
ただ、それでもよくみれば移植の傷痕が残っている。
その傷痕をどうするか。台湾人が出した答えは
「上にタトゥーをして、自分のチャームポイントにしてしまえ」
ということだった。つまりは今日の観光地化である。
権利関係がしっかりしていた眷村は、高度経済成長の中で開発が遅れた。
人が住まなくなっても、鉄筋コンクリートのビルが建てられることはなかった。
彩虹眷村のように取り壊しの予定だったところを、カラフルに飾ることでそれを免れたり、四四南村などはきっと古めかしい建物を見つけて「逆にエモくない??」とでも思った人がいたに違いない。

彩虹眷村
元は中華民国陸軍作戦訓練司令部の将兵のための眷村。近くに筆者のが新兵訓練を受けた成功嶺もある
台湾社会を見ていていつも驚かされるのは、その自然治癒力の高さである。
台湾にとって後ろめたい過去につながる建築を、わずか一世代で映えスポットとして観光地にしてしまったのである。例えば日本で被差別部落が一世代で映えスポットになる、なんてことが起こり得るだろうか。
最後に、どうしても聞いてみたかったことを聞いてみた。
「今日、一部の眷村はこうして観光地になって、国内外から観光客がきているわけだけど、実際に眷村に住んでいた人としてどう感じているのか?」
叔父が答えた。
「いいと思う。新しいビジネスにもなっているしね。自分も実は観光地になった眷村に行くのが好きで、昔を思い出す機会になっている」
”こんなものは作り物だ”と言われるかと思っていた筆者にとって、叔父自身もよく行くという回答には正直驚いた。しかし、感情より先に”ビジネス”を語り、観光地になっても楽しみを見つける姿勢に、本省人とか外省人ではなく、「台湾人」をみた気がした。
記事執筆:げん
美麗!台湾はメールマガジンや公式LINE、公式SNSを運営しています。ぜひフォローいただけると嬉しいです。
■公式HP
■メールマガジン / 公式LINE
■X / Instagram / facebook
げん
台湾を愛するあまり、台湾で兵役に行った男。台北にて、台湾人の母親と日本人の父親の間に生まれる。
日本で小学校から中学校途中まで過ごしたのち、台湾花蓮で中学〜高校卒業までを過ごす。
2022年〜翌年まで台湾にて兵役に服する。
台湾の政治・経済・歴史・軍事などの分野で【手触りの台湾情報】の発信を続ける。

