2024年4月3日7時58分—。台湾東部花蓮の沖合でマグニチュード7.7の地震が発生。最大震度は6強(花蓮県和平)。この地震により18人が死亡。1145人が負傷し、2名がまだ行方不明である。
この地震は2000年以降台湾で発生した最大規模の地震であり、20回以上のマグニチュード5を超える余震があり、このことも被害が増えた原因となった。
今回は筆者の友人に協力を仰ぎ、震災から一年を迎えた現地を取材。震災後の故郷の現状を届ける。

取材協力をお願いした劉氏
寸断続く”故郷”へ
花蓮にいくにあたり、まず震災の影響を感じたのは交通インフラであった。
花蓮は東西幅43kmの間に3,000メートル級の山を27座、沖合に1,000~2,000メートルの海溝がある、山と海溝にわずかな土地にへばりつくように発展した町である。
そのため、台北から花蓮に向かう場合、交通手段は非常に少ない。主要な道路が二本と、鉄道が一本。この交通インフラによって花蓮の生活は支えられている。
0403の震災以降、この道路と鉄道が頻繁に寸断される。地震でゆるくなった地盤に大雨が降ると落石などによって、通行止めになるそうだ。
「この前も友達が帰って来れなくなってさー。すぐ復旧したからいいけど、長引くようなら政府が用意した国内線の特別便に乗って帰らなきゃいけないところだったよ」
と友人は語った。
筆者が取材に行った前々日も大雨で、小さな落石があり通行止めになったようだ。
花蓮に向かう電車の車窓からは山崩れで岩肌が露出した場所が至る所に見えた。

車窓から見える、崩れた山肌
復興の今、残された爪痕
花蓮市内ではいくつかのビルに被害が出た。
特に大きく倒れたビルの写真が、この地震のおそろしさの象徴となっているが、この場所は観光地として有名な花蓮最大の夜市「東大門夜市」のすぐ向かい側にある。
この倒壊したビルは現在取り壊され、更地となっている。
(フォーカス台湾より:https://japan.focustaiwan.tw/column/202404035001#)

更地となった倒壊ビル跡地 2025年5月30日撮影
一方で、取り壊しが進まないままとなっているビルも残されていた。
市内にある馥邑京華ビルは、0403からの地震によって激しい損傷を追って「居住不可」とされ、すでに住民も退去が完了したものの、取り壊しの負担をめぐって行政の紛糾が続いており、いまだに取り壊しがされないままとなっている。

取り壊しが進まない馥邑京華ビル。外壁が露出しているのがわかる。
花蓮の産業にとって一番痛手となっているのは、有名な観光地となっている太魯閣(タロコ)国家公園が一般の立ち入り禁止のままとなっていることだろう。
太魯閣(タロコ)国家公園は大理石を渓流が侵食して作られた大渓谷で、長い時間をかけて形成された自然のダイナミズムと、そこで生活する原住民タロコ族の文化を体験できる、花蓮でも屈指の人気観光スポットだった。

被災直後の太魯閣(タロコ)国家公園入り口 2024年4月3日撮影
フォーカス台湾より:https://japan.focustaiwan.tw/column/202404035001#

現在の太魯閣(タロコ)国家公園入り口 2025年5月30日撮影
「それが花蓮さ」
この取材の中で、最も悩んだのは、花蓮に”被災地”という言葉を使うかどうかである。
ここまで震災が残した爪痕を取材してきたが、その形跡は探さないと見つからないほど限定的で、市街地の様子は筆者が住んでいた数十年前と変わらない街並みだった。

花蓮市街の街並み よく知った故郷は日常を取り戻していた
震災爪痕は確かに残っているが、すでにかさぶたが取れ、古い傷のようになっていると言えるかもしれない。何よりもメンタリティが”被災地”という言葉が持つ悲壮感に相応しくない。
「それが花蓮だから」
取材を案内してくれた友人は何度もそういった。
当然、震災により多くの方が命を落としたことは、痛ましいことである。
しかし、台湾は悲しみに暮れたり、いろんな活動を自粛するよりも、前を向くことを選んだのだ。そして何よりも花蓮の人が”被災者”になることを拒んだのではないだろうか
その象徴として市街地に描かれたグラフィティがある。

花蓮の町に描かれたグラフィティ
これは震災後の2024年の10月に行われた「Meeting of Styles 國際塗鴉藝術節(国際グラフィティフェスティバル)」の一環で描かれたもので、地震で倒壊したビルの隣、ガラ空きとなってしまった壁面を使ってグラフィティを描いたものである。
実際、現在グラフィティが描かれている場所のストリートビュー(2022年8月)を見ると、震災前はまだそこに建物があったことがわかる。

グラフィティのあった場所のストリートビュー
筆者プロフィール
げん

台湾を愛するあまり、台湾で兵役に行った男。
台北にて、台湾人の母親と日本人の父親の間に生まれる。
日本で小学校から中学校途中まで過ごしたのち、台湾花蓮で中学〜高校卒業までを過ごす。
2022年〜翌年まで台湾にて兵役に服する。
台湾の政治・経済・歴史・軍事などの分野で【手触りの台湾情報】の発信を続ける