台湾で活躍する日本人映画監督 北村豊晴さんインタビュー

インタビュー
台湾映画界の第一線で活躍し、映画「おばあちゃんの夢中恋人」やドラマ「ショコラ」などを代表作に持つ映画監督・北村豊晴監督のインタビュー。 台湾でバイトしながらの語学学習の苦労や、命を燃やした台湾芸術大学時代のエピソードをたっぷり語っていただきました。渡航に躊躇している人必見! 北村監督がご両親と経営する台湾の日本食店「北村家くるみ」での、和やかな雰囲気の写真も一緒にお届けします。

監督と台湾が繋がったきっかけ

最初は北京の語学学校に通っていらっしゃったんですよね。

そうです。役者になることを目指して、1997年、香港返還の年に北京に渡りました。

ただ、一年の計画で行ったのですが、すぐに語学学習だけでも2年はかかることに気がつきました。

生活費を稼ぎながら勉強する形に切り替えようとしたのですが、中国は当時バイト代が安く、1ヶ月しっかり働いても収入が800人民元(日本円で約一万円)程度だったんです。

そこで、バイトができて物価が妥当な台湾が選択肢に入ってきました。

あと、台湾の女の子は可愛いと聞いたことも台湾を選んだ理由の一つです。その時見せられたのがビビアン・スーだったんですが。(笑)

 

北京から台湾に来て生活は変わりましたか?

北京にいた時は孤独感が強くて、人に騙されたりすることもありました。
それと逆に、台湾は少し小さくした大阪みたいなフレンドリーな雰囲気だと感じました。

台北にいると出会う人がだいたい知り合いだったり、知り合いの知り合いだったりするんです。
例えば、知らない女の子をナンパしたと思ったら知っている人だったり。

それに2ヶ月くらいで気が付いて、これは悪いことはできないなと思いました。(笑)

 

それで、もう北京には戻らなかったと。

そうです。
これはサクセスストーリーとして語れないかなと思っているのですが、僕、300ドルしか持たないで台湾に来たんです。

しかもお金がなかったので片道チケットです。本当はいけないんですよ。
その時の僕の行動力は本当にすごいと思います。

何かあったとしても、「死ななかったらいいや」という気持ちでした。失うものが何もなかったんですよね。

北京時代〜台湾での中国語学習

北京に行った時は中国語は喋れたのですか?

北京に来た時は、本当にゼロでした。
しかも北京の語学学校では、中国語が全くわからないのに中国語で授業を受けるので、赤ちゃんが言葉を覚えるのと同じ仕組みで学習していました。

「昨日のご飯は何を食べましたか?」って言われたら、あ、「ご飯」って言ってるな、みたいなクイズ形式の習得方法です。

4ヶ月経つ頃には、「何が好き?」とか「どんな音楽が好き?」などの簡単な文が喋れるようになり、ナンパぐらいはできるようになったなと言う感覚がありました。
でも、答えられてもなんだかわからないので相手の答えは全部無視ですが。(笑)


相手の答えは無視!

そう。または、自分の好きなものを勝手に答えるとか。


どっちにしても無視なんですね。そのナンパはクラブや飲み屋などでするのでしょうか?

お金がなかったので、クラブや飲み屋には行けず、バイト先の美容院で関わる人たちと話をしていました。

ただ、美容師としてのスキルがあるわけではないので美容院での仕事はずっとタオル干しとドアマンとお茶出しです。まさかのタオル干しが日本人。(笑)

でもその美容院のバイトも三日目くらいで飽きて、他に稼げる仕事を探していました。
ちょうどその頃に、日本料理のお店を開店する人と知り合い、その日本料理店で働き始めました。

 

台湾に来てから学校には行ってないのですか?

そうです。学校には北京で4ヶ月しか通っていないです。
台湾では中国語を使わざるを得ない環境に身を置くことで中国語を学んでいきました。

前述の日本料理のお店では「中国語できます!」とハッタリをかまして通訳として雇ってもらっていたので、ハッタリがバレないように毎日必死で努力していました。
最初は厨房の調理器具の名前や食材の名前などが全くわからず、周りに聞きながらひたすらにメモをとっていました。

国立台湾芸術大学時代

中国語ができるようになってきたのはいつ頃でしたか?

台湾に来て二年経ったところからです。その頃から台湾芸術大学に通いました。
ただ、映画の授業はまだわかるんですが、古典の授業のような文学系になると何もわからなくて困りました。

しかもその古典の授業の先生が湖南省の出身で、中国語の癖が強かったんです。
でもその先生が「テストの点が悪くても単位をあげるから、授業には来て前の方に座りなさい」と言ってくれたことはいい思い出です。

 

台湾芸術大学の入試はどのように行われたんですか?

筆記のテストと面接でした。

その時困ったのが、面接の際に何か作品を持ってこないといけないという指定でした。
僕はその時なんにも作品がなかったので、仕方がないのでその時金髪のドレッドヘアーにして、トラ柄のパンツ履いて、「僕が作品です」という出方を取りました。

すごい!(笑)

しかも、その時受験生が自分の他に一人しかいなくて。たった二人で集団面接でした。
もう一人はロンドンで写真を勉強していたイギリス人でした。

その時は留学生の枠が二つ、受験生もちょうど二人だったので運よく合格しました。
その年は台湾芸術大学の留学生の募集開始の最初の年でもあったようです。

筆記試験は映画理論のようなものを問う問題が出ました。

映画理論。難しそうですね。

そうですね。

ただ、入学してから周りもエリートが多いんだろうと身構えてい他のですが、同級生には意外と映画に興味がない人もいて、肩透かし的な部分もありました。
台湾は国立志向が強いので、センター試験のようなもので、とりあえず国立大学だからという理由で入って来ていたんだと思います。

でもその分、映画を撮る授業で監督の役割をゲットするのが簡単で良かったです。
そのおかげで学生時代もずっと映画を撮ることができました。

それはずっと働きながら通っていたんですか?

働きながら通っていました。

最初の二年くらいは8時から5時まで授業を入れていて、5時半からバイト、みたいな生活でした。
25歳くらいの時ですね。

今思えば適度にサボれば良かったのですが、当時は「とにかく行く!」と思って通っていました。

すごく良い25歳の過ごし方だと思います。

今、日本の東京などの大都市で連綿と働いて、疲弊してぼんやりした日々を送っている人や、生きている実感が感じられない人にぜひ読んでもらいたいです。

こういう25歳を生きている人が居たんだなと感動して欲しい。

でも、当時は周りの同級生が19歳なので、25歳で大学生をしていることに葛藤もありましたよ。
ただそれでも、学費を自分で稼いでいることには誇りを持っていたし、今思うと毎日がめちゃめちゃ楽しかったです。

ちなみにその時はイタリアンレストランで働いていて、もうそこで働いていこうと思っていました。

映画を取ることは意識していなかったのですか?

もちろん最終的には映画が撮りたかったのですが、まだ無理だと思っていました。

その頃は台湾人の彼女と同棲していたんです。
学校に行って、バイトの終わった後に彼女と映画を見たりする生活をしていました。
彼女とは屋上に立っているタイプの家賃の安いワンルームの家に住んでいて、貧乏でしたがとにかく楽しかったです。

屋上の部屋は夏は暑く、冬は寒くあまり環境が良くないのですが、屋上にポツンと立っていて雰囲気の良い住まいでした。

今考えてみると月に6万円のバイトの収入で、あんなに楽しく暮らせていたんだなぁと思います。
今となっては6万円なんて1日に使い切ってしまうこともあるし、安い酒を飲んでる奴らのことをしょうもないなぁと思うこともありますが、その時はそれで楽しかったんですよね。

留学も、予算を決めてくる人が多いと思うのですが、限られた中でいかに毎日楽しく過ごせるかが大切だと思います。

台湾での生活

日本人が台湾で生活する上で不便なことはありますか?

言葉さえどうにかなれば何にもないと思います。

家賃も値上がりしたとはいえ、まだ東京よりは安い。
タクシーも安いし、タクシーで移動することでタイムイズマネーを実践している感覚があります。
治安もいいですね。東京と台北で比較するとしたら台北の方が治安がいいと思います。

ただ、正直な話をすると、台湾での最近の日本人の振る舞いは気になります。
日本人が台湾で日本語を無理やり使って物事を推し進めようとしている姿を見ると、ちょっと野蛮に見えるんですよね。

 

日本人観光客が台湾人に向かって、日本語でクレームを言う姿はダサいですよね。

そうです。ニューヨークで日本語でクレーム言ったりする人はいないでしょう。
だからやっぱり、中国語を勉強して欲しいです。

中国語を学ぶこと

中国語を学ぼうと思ったきっかけを教えてください。

留学して語学を学ぶにあたって、英語も検討したのですがしっくり来ないで考えていた頃に、大学の中国語学科の日本人の女の子と知り合ったことがきっかけです。

その子から、「2004年に北京でオリンピックがあるかもしれない」という話を聞いて、「これは先物や!どこかで中国語は武器になる!」と思いました。

中国語が武器になるという考えだったのですね。

そうです。
でも、言葉を勉強するのもいいけれど、何かそれにプラスしてもう一つ戦える武器が必要だとも思います。
語学だけできる語学屋さんは、ライバルが多いんです。

例えば自分の場合でも、今は映画を撮る技術が習得できたので、言葉と技術で戦えています。
「日本人の映画監督、得意分野はラブストーリーとコメディ」という条件ならばたくさんライバルがいますが、台湾に住んでいる日本人の映画監督だと言ったら自分しかいない。

嫌らしいですが、戦略的にそのポジションを狙った部分もあります。
そうやって自分の優位性を確保しつつ、どんどん挑戦して行くべきだと思います。

今後の展望・日本との関係

今後の仕事での野望のようなものを聞かせてください。

基本的にはやっぱり台湾が大好きだから台湾でやっていきたいのですが、今、実は中国にも興味があります。
というのも、映画の予算が一番出ているのが中国なんです。

台湾は台湾で、限られた予算の中で勝負する面白さがあると思います。
例えて言うと、台湾にいると「冷蔵庫の中身だけで料理対決、誰が一番美味しいか!」みたいなバトルができる。

中国で映画を撮るとしたら、「どこ産のどんな食材でも選び放題・使い放題」のような贅沢ができるのですが、失敗が許されないんです。
でも、今年45歳という歳でもあるので、体力があるうちに大勝負をしてみたい気持ちがあります。

 

日本に帰ってみたいという気持ちはありませんか?

月に1週間ほど日本にいて、残り3週間台湾にいる生活が僕の理想です。
それで、中国に仕事でちょっと行くとか。

いま日本に行きたい理由としては、実は自分の中の日本人らしさがなくなっていく事が少し不安なんです。

 

日本人らしさがなくなるというのは、どういう事でしょうか。

大学に入って最初に、「おばさん」という4分間の映画を撮ったんです。
台湾のおばさんの1日をドキュメンタリータッチで撮った作品なのですが、当時は視点の新鮮さなどをとても評価してもらいました。

でも、今はもう自分の目線が台湾化していて、台湾人に新鮮さを感じる撮り方はできないと思います。
もう自分の作品の評で日式幽默(日本式ユーモア)とは言われないんですよ。
あ、でも北村式とは言われるようになっていて、それはいいと思うんですけど。(笑)

だからこそ逆にいま日本に行って作品を撮ったら、日本人にとって面白いものが撮れると思うんです。

台湾留学を考えている方へ

これから台湾に来たいと思っている人へメッセージや伝えたい事をお願いします。
日本の若い人は、何かを決断するまでに躊躇してしまう人も多いと思うのですが。

躊躇している人は、見る前に飛んで欲しいです!
俺は見る前に飛ぶタイプなので、とにかく深く考えずに決断してみてほしいです。

理由は後付けで良いと思います。
僕も、中国にいくときに日本の友達に、夢にチャイナ服の美女が出てきてお告げを受けたとか、パンダを買いに行くとか、色々と適当な理由を言っていたらしいです。(笑)

たくさん経験を積んでいくと、見る前に飛んでも怪我しなくなります。
今はネットがあって色々な情報が検索できますし。

僕なんて、初めて北京に言った時は白タクに騙されて乗って、人民元で800元取られたんです。
でも、なんとかなりました。
そのエピソードも今こうして笑いのネタになっています。

なんとかなるという事ですね。

そうですね。だからもし今これを読んでいる人が20代とかだったら、ぜひ挑戦して欲しいです。

特に、かまってちゃんな人とかは向いているかもしれない。外国人であるというだけでたくさん構ってもらえます。
でも、台湾に長く暮らしている日本人の中には日本人であることを売りにせずに、すっと台湾社会に溶け込んでいる人もいるので、人それぞれだとも思います。不思議です。

ありがとうございました!



インタビュアー・吉田皓一

奈良県出身。防衛大学校を経て慶應義塾大学経済学部卒業後、朝日放送入社。

総合ビジネス局にてテレビ CM の企画・セールスを担当したのち退職。2012 年㈱ジーリーメディアグループ創業。台湾人香港人に特化した日本観光情報サイト「樂吃購(ラーチーゴー)!日本」(2015年 日経優秀製品サービス賞 最優秀賞受賞。月間150万UU超)を運営する。中国語に堪能(漢語水平考試最高級所持)なことから、「台湾で最もFacebookファン数の多い日本人」として台湾にてテレビ番組やCM出演、雑誌コラムの執筆なども行う。日本国内においても、台湾香港インバウンド関連のセミナーに多数登壇。現在は東京と台北を往復しながら、日本の魅力の発信につとめている。

 

 

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